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2004.11.19

ベルリンの壁

 僕の生きている間に、なくならないものとして、ベルリンの壁と朝鮮半島の38度線だと思っていました。30年くらい前、ベルリンの壁をこえる亡命者が後を絶たない状況でしたし、亡命することに失敗する人もかなりいました。壁には、亡くなったかたがたを偲(しの)んで花や写真がおかれていました。同じ民族で、なぜこんなコトになってしまったのでしょうか?悲劇としか言いようがありません。
 学生時代に、ベルリンの壁、西側諸国の陸の孤島の実際が見たくて、西から鉄道で東ドイツを抜け(トランジットビザ:車中で発券)、ベルリンへ着きました。お互いに、見える部分では、プロパガンダ効果を狙(ねら)い、特に東側では派手な建築物をこれ見よがしに建てていました。しかし、実際に東ベルリンに入ると違っていました。

僕は、まず、インフォメーションで宿を確保してから、ジーゲスゾイレ、そしてブランデンブルグ門をみて、チェックポイントチャーリーという検問所から東ベルリンに入るべく、唯一の手段、徒歩で向かいました。その途中には、廃虚と化した日本大使館があり、ブランデンブルグ門西側の通りには弾薬トラックと思われる車両がかなりの台数止まっていたのを覚えています。門の前には、ベルリンに一番乗りしたソビエトの戦車が飾られていたように記憶しています。
 チェックポイントの周辺はまだまだ復興が進んではおらず、がれきの山があちらこちらにありました。復興しているというより、まだ戦後間もないというのはこのような感じなのかと思いました。
 チェックポイントチャーリーに着く前に、たまたま旅行中だった西ドイツ人二人の車に乗せてもらい、3人で東ベルリンへ入国したのです。
 西側の検問は、心配することなく無事に通過したのですが、東側の検問は、銃を構えている状態でしたので、緊張していました。銃を見ること自体、初体験でした。
 無事に通過し、もうひとつの念願だった、「Unter den Linden」(往時の大通り)を車で走ってもらいました。ただ、東ベルリンには、警備兵とほとんどが、ソビエト側の観光客という状況で、住民らしい人影が少なく戦争モニュメントとしてのテーマパークのようでした。散策後わかったのですが、市民が少ないのは、壁にちかいアパートには、ほとんど人が住めない状況になっていたからです。車道はガソリンの精製が悪いせいか、黒くタールが染みこんでいる状態。有名なペルガモン博物館などを見て、再度、検問を抜け、なにかむなしさを感じながら、宿へ帰りました。その当時、戦後30年近くたっていても戦後間もなくの状態が続いていたのですね。漸(ようや)く、東西が統一され、首都がベルリンに戻り、戦後が終わったのかもしれません。
 朝鮮半島の統一は何時になるのでしょうか。

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